
第一回/マッチ原材料から世界へ
その昔、藤田が尊敬して止まない父は、祖父の作ったマッチ原材料工場を受け継ぎ、日本国内は勿論東南アジアを相手に順当に商売をしていた。しかし時代はどんどん手軽さを求め100円ライターの出現で「どこで擦ってもつくマッチ」の開発や、マッチ工場に配合を指導していた父の工場も、原料会社もしだいに雲行きが怪しくなってきていた。
開発せなアカン!!
そんな父の会社を見かねた香りの達人「藤田」は父の会社を立て直すべく奔走する毎日を送っていた。神戸では急速に靴の生産が活発化していた中、マッチの原料にゴムの耐久性を高める原料が含まれていることもあり、藤田は靴工場に営業して回ることとなる。しかしどこも門前払いの日々であった。そんなある日「人と同じものを売るのでは少々安くても相手にされない。何とか独自の商品を開発せなアカン」と意気込み、靴について猛勉強を始めることとなる。当時ヨーロッパでは、すでに、靴専門の大学があり、足専門の医者がいるほど靴文化が確立されていた。しかし日本の靴はそれらと比較すると『くつ/クズ』などと呼ばれるほど大きな差のあるものでした。欧米に遅れた日本が追いつき追い越すには最前線に身を置く必要を感じた藤田は単身イギリスへと乗り込むのでした。
世界のトップメーカに素材を売り込みたい
英国ノーサンプトン大学で足と人体そして高機能シューズ素材の研究をし、日夜開発・改良を重ねていた藤田は、特に靴の軽量化や高機能化について秘策を練り製品の研究、開発を続けていた。そして遂に、当時比重1.3だった靴底のゴム素材を0.45まで軽量化することに成功するのでした。そこでまず、国内のメーカーに売り込みますがていよく断られ、
世界一のスポーツメーカー「ナイキ」に売り込むことを決意します。 ナイキにコネなど無い同氏はアメリカで開催された展示会などで何とか商品説明のアポイントメントを取り付けることに成功。
そこで、多くの宿題を条件になんとかサンプル品の納品までこぎつけるのでした。
たくさんの宿題をクリアーする「サンプル品」作りはとても困難を極めるものでした。徹夜につぐ徹夜の末、なんとか「サンプル品」は完成させました。そして「ナイキ」に持ち込み、みごと認められその後取引を開始することができたのです。
しかし取り引きは始まったものの、一時期は、大量の受注により工場は24時間稼動状態。朝夕の湿度、室温の変化による大量のロス。ある時は納期に間に合わせるため空輸したりと
大幅な赤字を出すこともあったという。
夢はオリンピックへ
そんな忙しくも充実したなか、ついにまたも永年の夢を叶えるチャンスが到来したのです。1984年のロサンゼルスオリンピックです。ナイキはマラソンでポルトガルのカルロス・ロペスに靴の供給をとりつけました。優勝候補にもなかったそのロペス(当時36歳)はみごと一位でゴールしたのです。そうです。そのロペスの靴素材を開発したのが香りの男「藤田」だったのです。優勝したロペスは藤田の見つめるブラウン管の中、シューズを高らかと掲げトラックをゆっくりと2周するのでした。その優勝を、藤田はテレビの前でワンワン泣きながら家族とともに喜んだのでした。
→次号へつづく
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